自作ラーメンから世界へ、失敗を力にする誇り!
ラーメン激戦区で確固たる地位を築いてきた「ミスターラーメン」と呼ばれるレジェンドの一人として知られる、株式会社せたが屋の前島さん。その華々しい活躍の裏側には、10年に及ぶ独学の苦労と、一度はシャッターを下ろした挫折、そして「やっぱりラーメンが好きだ」という純粋な想いがありました。
幼少期からの想いと、ラーメンとの出会い
前島さんの飲食店への想いは、幼少期にまで遡ります。親が池袋でうなぎ屋を営んでいた背中を見て育った彼は、「自分も将来は飲食の道に進むんだろうな」と自然に考えていました。
建築関係の塗装の仕事など、さまざまな職を経験しながらも、根底にあったのは「料理を作ることが好き」というシンプルな気持ち。そんな彼を夢中にさせたのが、遊び仲間と夜な夜な食べ歩いたラーメンでした。友人に連れられて巡るうちに、その美味しさとラーメンと一括りにできない多彩な味があることに大きく魅力を感じます。「日本中のラーメンを食べ歩くだけでは足りず、気づけば自宅でスープを炊き始めていました」と当時を振り返ります。
「好き」を形にした、10年間の自作ラーメン
前島さんの原点は、意外にも建築関係の仕事をしておられた頃にあります。自宅で作る自作ラーメンを友人に振る舞うと大好評。当時はラーメンブームの前、ブームの兆しが見えているような頃で、情報もネットもなく、自分の足で食べ歩いて試行錯誤します。それがまた楽しい。
ラーメンの魅力にどっぷり浸かり、「自分はラーメン屋をやるしかないな」と、ラーメン屋の夢に向かって歩み始めます。
ラーメンの味作りとお店を出す方法を模索しながら10年の月日が流れました。転機は突然訪れます。現場仕事を通じて知り合った方の縁で、世田谷区にある現在の本店の物件を借りられることになったのです。お店の内装も現場の仲間たちが協力してくれ、自分たちの手で作り上げ、念願の第一歩を踏み出しました。
挫折から学んだ、続けることの難しさ
「よさこい」という店名でスタート。しかし、現実は甘くありませんでした。家で数杯作るのと、お店で10時間味を均一に保ち続けるのは全く異なりました。修行経験のなかった前島さんは、時間の経過とともに劣化していくスープの品質を安定させることができず、お客様や友人から厳しい言葉を投げかけられます。
ショックのあまり一度は店を閉め、「もう無理だ」と諦めかけたこともありました。しかし、長年の夢をどうしても捨てきれず、半年間のぶれない味作りを猛研究の末に再スタートを切ったのが「せたが屋」のお店。この時の「絶対にぶれない味を作る」という執念が、後に多くのファンを惹きつける「せたが屋」の礎となりました。
効率よりも「面白さ」を追求する職人スタイル
前島さんの経営スタイルは、少し個性的。初め、店舗を増やすことは念頭になかったと言います。しかしラーメンブームがやってきて、塩ラーメンブームが到来。
通常、多店舗展開をする際は同じ味を広めるのが効率的ですが、前島さんは「それでは面白くない」と、あえて異なるブランドを次々と立ち上げました。
昼は塩ラーメンの「昼顔」、夜は醤油ラーメンの「せたが屋」という、同じお店でラーメンの味、制服、どんぶりや”のれん”も昼と夜で変える『二毛作スタイル』。
それが話題となりメディアにも取り上げられて、行列が途切れないお店に。
2号店、3・4号店と出店するうちに、同じ味での展開は面白くない!と、ブランドごとに全く違う味を追求する専門店を展開していきます。それは効率が悪い道かもしれませんが、10年間の試行錯誤で蓄えてきた「味の引き出し」を形にしていく過程は、前島さんにとって自分らしい挑戦でもあったのです。
「俺に任せろ」という情熱を求めて
現在は吉野家ホールディングスグループと資本提携を行い、財務やバックオフィスのサポートを受けながら、よりラーメン作りに没頭できる環境を整えています。数々の失敗も、40店舗近い閉店の経験も、すべては「お客様に喜んでほしい」「健全な経営で従業員を守りたい」という想いに繋がっています。
「うちは自分たちの手で作る『フルスクラッチ』にこだわっています。自分が作るものにプライドを持てる人には、最高の環境ですよ」
「自分だったらこうしたい」という意欲を持つ人たちと、共にこれからの会社を作っていきたい。そんな前島さんの言葉には、かつて自宅で夢中になってラーメンを作っていた頃から変わらない、純粋なワクワク感が溢れています。
世界への店舗展開も見据えている前島さんは、最後に力強いメッセージで締めくくります。 「うちに来れば楽しいことがいっぱいできるし、チャレンジもたくさんできますよ。カモン!」



